神田川に架かる140の橋 みすぎ橋

神田川写真集。東京・神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋。
神田川の探索を通して、神田川歴史や江戸歴史をご紹介いたします。

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008-みすぎ橋(みすぎばし)

撮影 03/24 12:23   -BACK-   -NEXT-

神田川に架かる140の橋の8番目はみすぎ橋です。

みすぎ橋の外観
上流から見た場合の三鷹市最後の橋、みすぎ橋。
桜の木が川に被さっています。あと1週間もしたら満開か?


上流から見た場合このみすぎ橋が三鷹市最後の橋です。

みすぎ橋(三杉橋)は、三鷹市と杉並区をつなぐ橋というのが橋の名の由来となっています。

三鷹の"三"と杉並の"杉"で三杉ですね。

三鷹の名は、かつて徳川将軍家及び御三家が鷹狩を行なった鷹場の村々が集まっていたこと(野方領・世田谷領・府中領の3領)に由来すると言われています。

しかしなんと「旧三鷹村役場火災による資料焼失のため、真偽は不明。」だそうです。

また、「井の頭」は池に湧き出る水がおいしいから、三代将軍徳川家光が「ここの水はうまいな。これまさに井戸の頭じゃ」といった事に由来するとかしないとか。

これも真偽は不明。

この他「淀橋」の名も三代将軍の故事に関係するなど、神田川流域には徳川家光がらみの話には枚挙に暇が無いほどである。

みすぎ橋の親柱
みすぎ橋の親柱。
三鷹の"三"と杉並の"杉"で、みすぎ橋。
さようなら三鷹市。
こんちは杉並区。


ちなみに鷹狩りの話が時代劇などに頻繁に出てくるので、将軍様はさぞかしお暇だったのだろうといぶかる方もいらっしゃるだろう。

しかしこの時代の鷹狩りは単なる遊びを超えたものであった。

徳川家康が言を記録した「東照宮御実紀(とうしょうぐうおんじっき)」によれば、鷹狩りの目的は、

  1. 民情視察
  2. 軍事訓練
  3. 身体鍛錬
  4. 家臣団知行所支配の実体把握
  5. 家臣等の剛弱究明
  6. 色欲調整
  7. 士風刷新とその高揚
  8. 他領国の情勢把握
  9. 地方支配の基盤づくり

とあり、将軍様の立派なお仕事だったのである。

鷹狩りの起源自体は、中央アジアの騎馬民族の風習が朝鮮半島の百済(「くだら」または「ひゃくさい」)もしくは高麗(こうらい)経由で日本に伝わったという説と、日本独自のものという説が対立しているが、仁徳天皇(にんとくてんのう)の時代以来日本の上流階級に親しまれてきた風習である。

徳川家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった後の1604年に有力大名に対して鷹狩禁止令を、1612年には公家への鷹狩禁止令を出して、将軍家以外の鷹狩りを禁止した。

このことは徳川将軍家が鷹狩りを「東照宮御実紀(とうしょうぐうおんじっき)」にあるような政治的・軍事的な活動と考えていたことの証拠とも言えるだろう。

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