スポンサードリンク
浅草橋(あさくさばし)
神田川に架かる140の橋の139番目は浅草橋です。
浅草橋の外観
屋形船が停泊しています。
浅草橋は、江戸時代初期の頃から奥州街道に通じる交通の要衝として重んじられてきた橋である。
架橋年は定かではないが、慶長年間(1596~1615)の江戸図にもその姿が描かれており、江戸開府とほぼ同時期に作られたのではないかと考えられる。
奥州街道は、後の日光東照宮への参詣道として整備され、日本橋を基点として浅草橋、蔵前、雷門、小塚原、千住大橋を経て千住宿、草加、越谷方面に続き、江戸時代には日光道中を称していたらしい。
南詰は、江戸城外郭門「浅草口」の跡地で、寛永13(1636)年に枡形櫓が造営され、浅草見附として番士がおかれたという。
明暦3(1657)年の大火の時には、現在の日本橋小伝馬町にあった牢屋敷の非常措置として囚人が仮釈放されたが、浅草口に押し寄せた囚人たちを番士が集団脱獄と勘違いして門を閉ざしたことから、猛火に追われた市民が避難路をたたれて神田川に落ちるなど、二万人余りの死者を出したと伝えられる。
橋の北詰西の「浅草見附跡」の碑の後ろ側は、浅草橋公園という公園があるが、そこにかつて川の底の黒土をすくいあげて左官業者などに販売していた土屋である「つち鉄」の看板がある。
浅草橋から北に続く日光街道の両側には、古くは一面の茅原であったことにちなむ茅町の町名があるが、浅草寺に続く参詣道と神田川の船運という立地条件が重なり、江戸時代から参詣土産の人形問屋が並んでいた。
久月、吉徳といった老舗をはじめ、人形で飾られたショーウインドウが国道沿いに今も並んでいる。
浅草橋南詰め西側には、関東の諸代官を統括した関東郡代屋敷跡がある。
浅草橋の親柱
スポンサードリンク