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三島橋(みしまばし)
神田川に架かる140の橋の109番目は三島橋です。
三島橋の外観
桜もかなり散っていますね
三島橋(みしま)界隈のかつての字名(あざな)は三島であり、橋のそばに立つ掲示板にも「三島町会」の名前が見られる。
古く房総(ぼうそう)から武蔵国(むさしのくに)に入った源頼朝がこの地で軍勢を整えた際、三島神社を勧請したことからこの字名になったのであろう。
後にこの神社は、東海道三島宿(現静岡県三島市)に移されたが、現在も水稲荷(みずいなり)神社境内に末社として祠(ほこら)が残されている。
三島橋からすぐ南に入ると、新目白通り越に水稲荷神社への参道が見える。
その昔、高田稲荷、戸塚稲荷などとも呼ばれたこの社は、太田道灌(おおたどうかん)がこの地で狩りをした時に植えたとされる榎(えのき)の木を、関東管領(かんとうかんれい)上杉良朝(うえすぎよしとも)が神木として社を建てたのが始まりとされるが、江戸時代の元禄15(1702)年にその榎の根元から霊泉が湧き出し、眼病に効能ありとして信仰を集め、水稲荷と称するようになったという。
水稲荷神社旧地には、富塚という円墳があったが、これがこの周辺の戸塚の地名の由来という説もある。
この円墳を利用して、安永八(1779)年に富士講(ふじこう)行者の高田藤四郎(たかだとうじろう)が作った築山が高田富士(たかだふじ)である。
富士講とは、平安時代の山岳信仰の流れであり、江戸時代には富士山信仰へと変化したが、当時実際に富士山に参詣に出かけることが出来ない者が多かったことから、江戸市民のために、富士山から運ばれた石などを積み上げた「富士塚」が多数作られ、高田富士はそのようなものの中で最大最古のものとされる。
三島橋の親柱
三島橋の鴨(かも)
かわいいですね。食べてはいけません。
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