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大滝橋(おおたきばし)
神田川に架かる140の橋の113番目は大滝橋です。
大滝橋の外観
神田上水取水口「大洗堰」のあった場所にかかる橋で、レンガ造りを模したような親柱が特徴的である。
神田川は目白台側の神田上水に取水されて、残りの水が流れて江戸川(神田川)になる。
橋の名前の由来は、この堰から水が落ちる様子にちなんでおり、江戸時代には名所の一つとして知られていた。
現在の橋の付近には、昔ここに堰があったと思わせる要素は全くないが、橋のたもとに堰の由来の説明板がそれを物語っている。
それによれば実際に堰があった場所は橋から数メートル下流だったようである。
実際下流に石碑と遺稿の一部が移設されて残っている。上水の取り口が、給水地域から相当な上流となるこのあたりに定められたのは、潮の干満の影響を受けないぎりぎりの地点が丁度このあたりであったからということである。
「江戸名所図会」の「目白下大洗堰」では、堰の部分が大きな段差となり、滝のように流れているのがよく分かる。これを関口の滝、大滝などと称していたようである。
神田上水は明治時代に廃止されたが、大正8年にこの一帯が「江戸川公園」として整備された折に、大洗堰は史跡としていったん残された。
昭和12年の江戸川改修工事により失われて現在に至り、現在は堰に使われていた石材を再利用した作られた「由来碑」が残っている。
ここより進んで江戸川公園の先、川の右手側は椿山荘の庭園がある。
北に広がる目白台の傾斜地は鎌倉時代から椿の名所として知られ、太田道灌はこのあたりの椿の陰に敵対していた練馬氏の伏兵が潜みやすいから気をつけるようにと家臣に対して命じていたといわれている。
江戸時代には黒田豊前守(くろだぶぜんのかみ)の下屋敷がおかれ、それが明治維新の後に元老山縣有朋の邸宅地として払い下げされてから椿山荘と呼ばれるようになった。
現在の椿山荘の運営者は、この山縣家から椿山荘を購入した関西の某男爵家の流れを汲む企業ということである。
大滝橋のレンガ造りの親柱
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