神田川に架かる140の橋 後楽橋

神田川写真集。東京・神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋。
神田川の探索を通して、神田川歴史や江戸歴史をご紹介いたします。

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129-後楽橋(こうらくばし)

撮影 04/07 12:46   -BACK-   -NEXT-

神田川に架かる140の橋の129番目は後楽橋です。

後楽橋の外観
後楽橋の外観
橋のアーチに後楽橋と書いてあります。


後楽橋は水道橋駅西口改札前の橋で、震災復興橋の一つとして、昭和2年に架橋された橋である。

文京区側の外堀どおり北側一帯は後楽という町名であるが、江戸時代にこの地域にあった水戸徳川家屋敷の「後楽園(こうらくえん)」庭園にちな名前である。

ちなみに水戸徳川家は、尾張徳川家、紀州徳川家とともに御三家(ごさんけ)と呼ばれる江戸時代の親藩(徳川宗家の親戚筋の大名)の最高位の家柄であり、その家紋も「三つ葉葵(みつばあおい)」であるが、それぞれ微妙に異なっている。

将軍家本家(征夷大将軍)の家紋が「三葉表葵」なのに対して、尾張は「二葉表葵」、紀州が「一葉表葵」、水戸が「三葉裏葵」である。葵の葉っぱが何枚表を向いているかで区別するのである。

古美術などの世界で徳川家にまつわる偽物が出回った時に、葵の紋所の使い方の間違いで区別がつくことが多いらしい。

見た目以外に、どの範囲まで葵の紋を使っていい家柄なのかが厳格に決められおり、且つ他の家から養子に来た当主の場合には一代限りもとの家の紋を使うこともあるので、中々に難しいらしいのだ。

後楽園の命名者は水戸黄門で有名な第二代徳川光圀(とくがわみつくに)といわれ、中国の「岳陽楼記(がくようろうき)」にある「天下の憂に先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から取られた名前という。

屋敷地は寛永6(1629)年に、水戸徳川家の祖である徳川頼房(とくがわよりふさ)により開かれたもので、当初は七万六千坪余りの広さを有していたという。

徳川光圀の時代に、現在の見るような回遊式庭園の佇まいがおおよそ整ったらしい。

明治四年からは兵部省造兵司が置かれ、同12年から東京砲兵工廠の敷地となり、庭園はその附属とされた。

砲兵工廠が移転となり、その跡地に後楽園球場が完成したのは同11年のことである。

後楽橋と○○橋
神田川の後楽橋と日本橋川の三崎橋
左が神田川で、右は日本橋川。
ここで神田川が分岐して日本橋川となっています。
日本橋川の起点となる場所ですね。


後楽橋の親柱
後楽橋の親柱
大きな大きな親柱です。圧倒されますね。


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