神田川に架かる140の橋 柳橋

神田川写真集。東京・神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋。
神田川の探索を通して、神田川歴史や江戸歴史をご紹介いたします。

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140-柳橋(やなぎばし)

撮影 04/07 14:38   -BACK-   -NEXT-

神田川に架かる140の橋の140番目は柳橋です。

柳橋の外観
柳橋の外観。
左は屋形船。


柳橋はこのサイト神田川写真集、東京・神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋の最後の橋です。

神田川最下流の橋で、東京都中央区と台東区に、またがって架けられている。

もともとは神田川が大川に流れ込むところにあるので「川口出口之橋」という名称であったが、ほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれるようになったということである。

元禄年間(1698年)に初架橋。現在の橋は関東大震災の後につくられた鋼鉄製のものである。

江戸時代には「浅草橋」と「柳橋」の間の河岸が遊郭で有名な吉原に通う「猪牙舟(ちょきふね)」など様々な舟遊びの場となり、周辺には船宿や料理屋が並んでいた。

「河岸」とは狭義では河川・運河・湖・沼の岸に作られた港や船着場のことであるが、江戸時代には河岸に問屋を商う商人やその蔵が集まって一つの商業集落をなしたことから、広義には、町・村そのものを指すと言ってもよい。

柳橋は、そのような河岸の一つとして「柳橋芸者」で知られる花街のイメージもあるところである。

正岡子規の歌にも「お白粉(おしろい)の風薫るなり柳橋」と歌われた花街としての賑わいは、辰巳芸者で有名な深川花街が江戸幕府の寛政の改革・天保の改革の風紀の粛清・質素倹約の流れの中で弾圧を受け、芸者衆が集まってからのことである。

以来明治時代以降も、文人・画家に愛された花街「柳橋」であったが、現在花街の風情を残すのは橋近くの料亭「亀清楼(かめせいろう)」のみとなっている。

欄干の「花かんざし」は、花街のイメージとして平成4年に柳橋がローゼ形式でリニューアルされた時に埋め込まれたものである。

柳橋の親柱
柳橋の親柱。
頑丈(がんじょう)そうですね。


柳橋の案内版
柳橋の案内版
町名の由来や歴史が簡潔に書かれています。


柳橋からみた神田川と隅田川
柳橋からみた神田川と隅田川。
奥が隅田川です。右に下ると東京湾です。
屋形船が東京湾に船尾を向けています。


柳橋からみた両国橋
柳橋からみた両国橋
右手の建物は、警視庁東京水上警察の隅田川水上派出所です。


神田川24.6kmを歩くの終わりに

この柳橋で、3日合計約12時間かけての24.6kmの神田川散策も終わりました。
時速2キロですから、結構急ぎ足の散策だったかも知れません。

神田川24.6kmを歩き、神田川に生息する植物、生き物、我々のためにも、この神田川をもっともっときれいにすべきだと感じました。

このサイトを訪れた方が、少しでもそれを感じ、神田川に限らず、私たちの住む町、東京、日本、世界を、そして我々の心の中も、綺麗にするんだと思っていただけたら喜びに耐えません。

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