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左衛門橋(さえもんばし)
神田川に架かる140の橋の138番目は左衛門橋です。
左衛門橋の外観
橋の下流に屋形船が停泊しています。
明治8年に架橋された民間の有料橋が、1930(昭和5)年の震災復興事業の一環として現在のような橋となったという。
現在の橋は、親柱によると平成12年2月完成とあり、近年の大規模修繕によるもののようである。
河口付近から川面を埋めていた屋形船は、このあたりの上流から見られなくなる。
もともとこの一帯は左衛門河岸(さえもんがし)と呼ばれる地域である。
嘉永六(1853)年の「東都浅草絵図(とうとあさくさえず)」によると橋の北詰に鶴岡藩(通称 庄内藩)の酒井左衛門尉(さかいさえもんのじょう)の下屋敷があったことからこの地名が生まれたと想像される。
左衛門橋北詰には、昭和38年まで浅草左衛門町の町名があったが、江戸時代には平右衛門町と呼ばれていたらしい。
似たような地名が、柳橋北側にも見られるが、左衛門河岸に近い方を上平衛門町、柳橋の方を下平衛門橋と通称していたらしい。
平右衛門町の名前の由来は、天正18(1590)年の徳川家康の江戸入りに随行した遠州浜松出身の人物で、神田川北側一帯に町家を開くように命じられた人物。
下流の浅草橋から川の南側を並行して走る柳原通りは、安政六年(1859)の「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」によると、浅草橋から現在の万世橋まで続く柳並木があり、これを柳原土手と呼んだことにちなむ名前のようである。
江戸市中には、江戸城を築城した太田道灌(おおた どうかん)により、鬼門にあたる場所に魔よけの力があると信じられていた柳が数多く植えられているが、ここの柳もそのような魔よけなのだろうか?
左衛門橋の親柱
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