スポンサードリンク
高井戸橋(たかいどばし)
神田川に架かる140の橋の23番目は高井戸橋です。
高井戸橋の外観。
ぼんぼりも屋台も準備完了。
後は川沿いの桜が咲くだけ。
桜が咲いたら、夜桜で宴たけなわ!!
江戸時代の事ですが、高井戸宿は、内藤新宿(ないとうしんじゅく)が出来る前は、日本橋からの最も近い宿場で上高井戸宿と下高井戸宿に分かれいて、月の前半は下高井戸宿が営業し、後半は上高井戸宿が営業して人馬を提供したということです。
高井戸橋の親柱
高井戸の地名自体の由来については、古くは高井堂と呼ばれ、これは下高井戸四丁目の甲州街道北側にある宗源寺境内左手の不動堂のことであり、もとは近くの本覚院にあったものを明治四四年に宗源寺へ移したということです。
高台にあったことから高井堂と呼ばれていたという記録が戦国時代の文書にも見られるそうです。
かの時代は、島崎藤村の小説「夜明け前」にあるように、参勤交代などで立ち寄る大名行列の世話をするために人馬を提供するなど、さまざまな義務を負わされていました。
月の前半と後半で担当を分けたのはそうした義務を平等に割り振るのが目的だったのかも知れませんね。
高井戸宿は最盛期には上下あわせて34軒の旅籠屋(はたごや)があったそうです。
水と冒険ゾーンのマップ
佃橋から八幡橋までが書かれています。
参勤交代で甲州街道を通る大名は高島藩(長野県諏訪市、諏訪藩ともいいます)、信濃高遠(長野県上伊那郡高遠町、しなのたかとおはん)藩、飯田藩(長野県飯田市)の3藩のみなので旅人の往来は比較的少なかったようです。
元禄11(1698)年に内藤新宿が設置されたから高井戸宿の客足は減少して行きましたが、将軍家使用の「宇治の新茶」を江戸城に運ぶ行列(いわゆる「お茶壷道中」)の時には、大名行列をしのぐ規模であり、この時ばかりは高井戸宿は大いに賑わったということです。
現在の高井戸橋は、高井戸駅に近いせいしょうか、自転車置き場化していますが、現在のコンクリート護岸が出来る前に桜の名所として有名であった高井戸堤を描いたイラストタイルが路面にはめ込まれてます。
スポンサードリンク