神田川に架かる140の橋 江戸川橋

神田川写真集。東京・神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋。
神田川の探索を通して、神田川歴史や江戸歴史をご紹介いたします。

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115-江戸川橋 (えどがわばし)

撮影 04/07 10:47   -BACK-   -NEXT-

神田川に架かる140の橋の115番目は江戸川橋です。

江戸川橋の外観
江戸川橋の外観


東京メトロ有楽町線の「江戸川橋」近くの神田川に架橋されている目白通り沿いの橋梁。

1971年3月までこの地を運行していた路面電車(いわゆる「都電」)の停留所名をそのまま踏襲した駅名となっている。

江戸川橋の「江戸川」とは、利根川水系の江戸川のことではなく、神田川中流部分(おおむね大滝橋付近から船河原橋までの約2.1km)の区間のかつての名称で、同時にその沿岸付近をさす地名である。

河川としての江戸川の名前は、1970年8月をもって神田川に改められた。かつては江戸川橋は桜や蛍の名所として知られていた。

最初に懸けられた年代が不明の橋ではあるが、神田川中流域でかけられた最初の橋梁と言われている。

橋から北へまっすぐに伸びる広い通りは、護国寺に突き当たる音羽通りであり、天和元年(1681)に護国寺を創建した五代将軍綱吉によって開かれた将軍御成道(おなりみち)であり、通りに面した町家も綱吉が開いたものである。

町名の音羽は、この御成道沿いの町家になかなか家作人が集まらなかったことから、元禄10(1697)年になって、綱吉の生母桂昌院に使えた奥女中音羽に対して家作が与えられたことにちなむらしい。

音羽通りは、東の小日向台と西の目白台にはさまれた台地であり、通りの左右には、かつて神田川に注いでいた水窪川と弦巻川の二つの流れがあり、江戸時代には豊富な水量を生かして紙すきが、代表的な産業として発展していた。

当初は信州飯田から製造技法が伝えら手、天保年間(1830−44)をピークに紙の生産が行われてきたが、明治に入ると主体は紙細工の原料紙に変わり、明治末にはちり紙や封筒の原料を生産するようになった。

明治中期で70軒を数えた紙すき家は、和紙から洋紙への需要の変化、都市化による水質の悪化、震災による水脈の変化などで、戦中には全ての紙すき家が廃業したという。

近くには明治九年に阿波国(あわのくに)忌部神社(いんべじんじゃ)から音羽の紙すき家一同が勧請した天日鷲(あめのひわし)神社がある。鷲は「和紙」に通じ、和紙の町の昔を今に伝える唯一と言っていい痕跡となっている。

江戸川橋の親柱
江戸川橋の親柱


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