神田川に架かる140の橋 戸田平橋

神田川写真集。東京・神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋。
神田川の探索を通して、神田川歴史や江戸歴史をご紹介いたします。

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103-戸田平橋(とだひらばし)

撮影 04/07 09:43   -BACK-   -NEXT-

神田川に架かる140の橋の103番目は戸田平橋です。

戸田平橋の外観
戸田平橋の外観
戸田平橋は1999年3月に作られた橋。


写真の戸田平橋は1999年3月に作られた橋で護岸工事の際の再建橋である。

元の橋は1919年に作られたもので、名前の由来は新宿区の戸塚、豊島区の高田、そしてこの橋の建設に関係した淀橋区議会議員の平野与三吉に由来するという。

つまり、
「戸」は「戸塚」
「高」は「高田」
「平」は「平野与三吉」
で、「戸田平」。

この橋の近く、東京テクノロジーコミュニケーション専門学校入口近くに戸塚新道と、戸田平橋完成の記念碑がある。

この碑を書いた人物である北條時敬(ほうじょうときゆき)氏は、大正時代の教育会の重鎮であり、東北帝国大学総長、学習院長、宮中顧問官、貴族院勅撰議員を歴任し、弟子に哲学者の西田幾多郎がいるという人物である。

碑文の中では「従三位 北條時敬(じゅさんみ ほうじょうときゆき)」と署名されている。「従三位」は北條氏に与えられた位階であり、宮中での序列を表したものである。

もともとは官職と一帯となって官位という制度であったが、律令法の廃止とともに明治以降は栄誉として与えられるものになっていった。 第二次世界大戦の後、一時停止されたが、1964年に授与対象を故人に限って復活している。

江戸時代の武士の名前は位階とともに、本姓(ほんせい)や受領名(ずりょうめい)などがあって相当にややこしい。

例えば幕末に白虎隊(びゃっこたい)の悲劇を見た会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)公の受領名は、松平肥後守(まつだいらひごのかみ)であり、領地と受領名が一致していない。

このような例が多々見られることから受領名は慣例として代々その家が名乗ってきたものであろうと推測される。

これ以外に役職名で呼ばれることもあり、会津藩主家は、代々「左近衛中将(このえちゅうじょう)」であったから、「会津中将」という呼び名も存在する。

明治維新で有名な伊藤博文(いとうひろふみ)も、署名する時には「藤原博文(ふじわらのひろふみ)」と書いて、伊藤家の本姓が「藤原氏」であることから本姓を用いた署名になっている。

更に「いとうひろふみ」ではなく、「いとうはくぶん」という音読みの読み方もあって、これを「有職読み(ゆうそくよみ)」という。

本来の読み方で読むことは恐れ多いことなので、わざと音読みで別の読み方をしたのである。

ややこしい限りである。

この辺りの橋は大正時代に作られたものが多いのが特徴のようだ。

この橋のやや手前あたりには、かつて戸山(とやま)方面から北上して来た「秣川(まつかわ)」の流れが合流していたといい、合流点近くは「馬尿川(ばしがわ)と呼ばれ、流れの西側一帯を「字秣川(あざまつかわ)」と称していたという。

現在は、源水橋(げんすいばし)の「まつ川公園」にかろうじてその名前が残っているだけである。

戸田平橋の親柱
戸田平橋の親柱
この辺りは新宿区と豊島区が入り組んでいます。


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