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長者橋(ちょうじゃばし)
神田川に架かる140の橋の77番目は長者橋です
長者橋の外観
長者橋は山手通りを渡す橋である。
橋の名前の由来は、「中野長者(なかのじょうじゃ)」と呼ばれた「鈴木九郎(すずきくろう)」の住居跡とされる「成願寺(じょうがんじ)」に近いことによる。
山手通り沿いに中野坂上方面に進むと、中国風の奇抜な山門が見え、門前には「史跡中野長者遺跡」と刻まれた石碑がある。
この寺は中野長者を開基として応永年間(1394~1428年)に開かれたと言われる。
中野長者は欲深く、悪行数度におよび、その報いのために一人娘が蛇の姿となって、十二社熊野神社の池に入水して絶命したと伝えられる。
長者は自らの罪を悔いて仏門に帰依し、自宅に小さな寺を築いて、娘の法名から「多宝山正観寺(たほうざんしょうがんじ)」と号したが、後に成願寺と改めたという。
墓域の入口辺りに中野長者の墓があり、「中野長者ものがたり」と書かれた掲示板があり、中野長者伝説を分かりやすく説明している。
墓域には、中野区内で唯一の大名家の墓である肥後佐賀藩鍋島家の分家である肥前蓮池藩(ひぜんはすいけはん)鍋島家の墓所がある。
「江戸名所図会(えどめいしょずかい)」では、寺は社殿の真南に山門があり、その先に長者橋が架かっていた。
寺の周囲には川に面して水田が広がり、のどかな田園風景だったようである。
中野区の資料によると中野長者伝説は、この辺りの開墾をした地主の伝説が仏教説話の色合いを帯びて成立したものということである。
当時ののどかな田園風景を築いたのが中野長者だったのであろう。
長者橋の親柱写真は撮影を忘れました。今度行ったら撮影してこよー
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