神田川に架かる140の橋 和泉橋

神田川写真集。東京・神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋。
神田川の探索を通して、神田川歴史や江戸歴史をご紹介いたします。

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136-和泉橋(いずみばし)

撮影 04/07 14:07   -BACK-   -NEXT-

神田川に架かる140の橋の136番目は和泉橋です。

和泉橋の外観
和泉橋の外観
上の高架が首都高速一号線


この和泉橋の北に藤堂和泉守高虎(とうどういずみのかみたかとら)の屋敷地があり、橋の名はこれに由来するといわれる。

ちなみに蕉風俳諧(しょうふうはいかい)の創始者である松尾芭蕉(まつおばしょう)は、俳句の世界で名前が知られていない頃、この藤堂藩の下級士族として神田川の治水に関わる仕事をしている。

その頃の庵が関口芭蕉庵(せきぐちばしょうあん)である。

木橋から鉄橋への改架は明治25年のことで、現在の橋は大正5年のものであるという。

和泉橋南詰東側には、「既成服問屋街発祥の地」の説明版がたつ。

柳原通りとの交差点に当たるところであるが、江戸時代には柳原土手沿いに主に古着を扱う商人が集まり、古着市場として賑わったという。

和泉橋は秋葉原駅の昭和通り口の程近くにあるが、現在電気街の代名詞となっている秋葉原の地名は、もともと「あきばはら」「あきばがはら」と称されていたものが、駅開業時に駅名が「あきはばら」となり、その語このあたりの俗称として定着したものだという。

明治二年に、現在の秋葉原駅北側付近を火元とする大火により、周辺の町家が取り除かれて火除地が設けられ、翌3年には鎮火神社といわれる秋葉神社が祭られて秋葉ヶ原の地名が成立した。

この神社は明治21年に入谷(現在の台東区松が谷三丁目)に移され、その跡地に秋葉原駅が開業している。

なお、和泉橋は国道四号線でもあります。

なお、神田川にはこの和泉橋と同名の 「050-和泉橋」 もあります。

和泉橋の親柱
和泉橋の親柱


佐久間橋(さくまばし) 番外編

和泉橋の近くに佐久間橋があります。

この和泉橋は江戸時代には存在せず、明治30年以前に日本鉄道の貨物取扱所が秋葉原に開設されたのに連動して神田川から駅構内までの貨物運搬用水路がつくられた時に架橋されたものらしい。

この周辺一帯は江戸時代から現在まで「神田佐久間町1丁目」、川岸は「佐久間河岸」と呼ばれており、橋の名前もそれに由来するものである。

ちなみに町名の由来自体は、佐久間平八(さくまへいはち)という材木商の名にちなみ、町自体も延宝年間(えんぽう)(1673〜81)に材木商人が起立した町家ということである。

神田川の船運の便に恵まれたこのあたりは、江戸時代から材木商人だけでなく、様々な商人が集まる地であった。

関東大震災の折に佐久間町一帯の住民による消火活動のおかげで城東地区のほとんどが焼失した中で、唯一延焼を免れた町として知られているが、これは江戸時代から火災が多く、佐久間町とかけて「悪魔町」などと呼ばれたこの地域の住民がその反省を生かしたからであるとも言われている。

清洲通りから高架沿に佐久間公園があるが、ここは江戸時代には上州安中藩(じょうしゅうあんなかはん)の殿様である板倉伊予守の中屋敷だったところで、公園の隅にある草分稲荷神社は、この中屋敷の邸内社であった。

邸内社とは屋敷の鬼門封じなどのために領地の鎮守の御霊を分けて江戸邸内の藩邸に大名が立てた社のことである。

堀は当初は秋葉原の駅舎の北側まで入り込んでいたらしいが、後年埋められ消滅し、現在は「昭和四年四月完成」と記された親柱が和泉橋(いずみばし)のたもとの佐久間橋公園に残されている。

佐久間橋の外観
佐久間橋の外観。
この突き当りが神田川で、左に和泉橋があります。


佐久間橋の親柱
佐久間橋の親柱
現在は埋められ親柱だけが残る佐久間橋。


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