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宝橋(たからばし)
神田川に架かる140の橋の78番目は宝橋です。
宝橋の外観
斜めの角度にかかる宝橋。
宝橋は流路に対してかなり斜めの角度にかかる橋である。
「長者橋(ちょうじゃばし)」近くの「成願寺(じょうがんじ)」の山号を「多宝山(たほうざん)」と称することが橋の名前に関係あるのかもしれない。
いずれにせよ中野長者伝説に関係のある名前であると思われる。
「鈴木九郎(すずきくろう)」は今から600年以上前に現在の和歌山県の紀州熊野で生まれ、熊野の乱で敗戦側であった源義経に従ったため敗走し、中野(当時の武蔵野国多摩郡中野邑)に移り住んだ人物であるという。
鈴木九郎は、ススキ野原であった中野坂上、西新宿一帯を開墾して、一代にして長者と呼ばれる大富豪になった人物である。
伝説では、ある日馬を売りに行く途中で、浅草の観音様にお参りし、「儲けたお金の中の大観通宝(たいかんつうほう 中国からの輸入銭)は全て寄進するので、高い値段で売れるように」と願をかけたところ、高値では売れたものの全てが大観通宝。
当時食うにも困っていた九郎は悩んだ末、全てを観音様に寄進したところ、次から次に財を成して中野長者と呼ばれるまでになったとされている。
鈴木九郎はもともと生まれ故郷熊野の神社の神職の末裔であったから、これを熊野権現のおかげであると感謝して、生まれ故郷の十二の神様を勧請して熊野神社を創建したという伝説もある。
当時から神様と仏様の双方を信仰する神仏習合の風習があり、中野長者が観音菩薩と熊野権現の二つを崇拝したとしても決しておかしなことではない。
例えば江戸時代に「日光山(にっこうざん)」と呼ばれ、崇拝を集めていた場所は現在は「輪王寺(りんのうじ)」「日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)」「二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」になっているが、当時はこれらを併せて単に「日光山」として崇敬の対象となっていたのである
宝橋の親橋
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