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万世橋(まんせいばし)
神田川に架かる140の橋の134番目は万世橋です。
万世橋の外観
万世橋は、「中央通り」(国道17号)の上にある橋であり、電気街として名高い秋葉原の南端にある。
すぐ近くには今は廃止されてしまった「万世橋駅(まんせいばしえき)」の跡がある。
「万世橋駅」は「国鉄中央本線」の駅で、「神田駅」と「御茶ノ水駅」の間に存在した駅である。
駅舎は、「東京駅」を設計した「辰野金吾(たつのきんご)の設計で、1等・2等の待合室・食堂・バー・会議室を備える豪華な赤レンガ造りの駅は、中央本線の終着駅にふさわしい威容であったという。
この橋の歴史は、寛文16(1676)年に架けられた「筋違橋(すじちがいばし)」にさかのぼる。
徳川将軍家が歴代将軍を祭る「上野寛永寺(うえのかんえいじ)」に参る時に使う橋で、場所は現在の「昌平橋(しょうへいばし)」と「万世橋」の中間にあった。
「寛永寺」の創立者は江戸幕府の三代将軍徳川家光である。
開山(初代住職)は「天海僧正」、本尊は薬師如来である。
将軍家の祈祷書・菩提寺であり、歴代15人の将軍の内6人が寛永寺に眠る。
17世紀半ばからは皇族が歴代住職を勤め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山である。すぐ南には「筋違見附(すじちがいみつけ)」があった。
江戸城には三十六見附と言われるように36の見附があり、現在も地名に残っているものとしては「赤坂見附(あかさかみつけ)」がある。
見張番などを置いた城門などの施設のことを一般に見附と呼ぶ。
将軍家が通る橋なのだから、この近くに見張りのための施設があったとしても不思議はないし、むしろ当然である。
これが明治5年に取り壊されて、廃材を利用して筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋となり、当時の東京府知事であった「大久保忠寛(おおくぼたたひろ)」が「萬世橋(よろずよばし)」と命名したが、音読みの「まんせいばし」の名前の方が一般化したらしい。
別名「眼鏡橋」とも呼ばれて、親しまれた橋のようである。
万世橋の親柱
万世橋の外観
万世橋の親柱(かな名)柱
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