神田川に架かる140の橋 高塚橋

神田川写真集。東京・神田川に架かる井の頭池から隅田川(大川)までの神田川140の橋。
神田川の探索を通して、神田川歴史や江戸歴史をご紹介いたします。

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102-高塚橋(たかつかばし)

撮影 04/07 09:36   -BACK-   -NEXT-

神田川に架かる140の橋の102番目は高塚橋です。

高塚橋の外観
高塚橋の外観


高塚橋は、近くの地名である「高田」と「戸塚」から一文字づつもらった名前であろうか?

「高田」の地名の由来には二説あり、一つは高台にある田という地形に由来するという説と、徳川家康の六男で「越後高田(えちごたかだ)」藩主であった「松平忠輝(まつだいらただてる)」の生母、「高田殿(たかだどの)」の「遊覧地(景色の良い遠望を楽しむために開いた所)」であったからという説がある。

「松平忠輝」は、「隆 慶一郎(りゅう けいいちろう)」の小説「捨て童子・松平忠輝(すてどうじ まつだいらたたてる)」で有名であるが、小説の中では、生まれながらにして大きな体躯を持ち、鬼子と言われて父である徳川家康に嫌われたものの、武術、音楽など全てにおいて類まれなる異能の人として描かれている。

現実の「松平忠輝」の生涯は大変不幸で、兄である二代将軍「徳川秀忠(とくがわひでただ)」にも疎まれて、改易。自宅に火を放って最後を遂げたと言われている。

ちなみにこの松平忠輝が徳川宗家に許されたのは、20世紀になってからのことである。

1984年に松平忠輝の菩提を弔っている「貞松院(ていしょういん)」の住職「山田和雄(やまだかずお)」が300回忌での赦免を思い立ち、徳川家当主である「徳川恒孝(とくがわつねなり)」に願い出て実現したという。

三代将軍「徳川家光(とくがわいえみつ)」の弟で二代将軍「徳川秀忠」の子である「駿河大納言徳川忠長(するがだいなごん とくがわただなが 伝説では忠長の子供が時代劇に出てくる松平長七郎。但しそのような子供がいたという記録は存在しない)」も切腹を命じられたというから、初期の徳川将軍家の家庭事情は相当に大変だったようである。

高塚橋の親柱
高塚橋の親柱


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