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高田橋(たかだばし)
神田川に架かる140の橋の105番目は高田橋です。
高田橋の外観
桜が咲いて綺麗ですね
高田橋から先の神田川は、近年の護岸工事で大きく景観が代わったところと言われ、両側に歩道が整備されて、川沿いの散策道として付近住民に定着したところである。
「高田」の地名は、文字通り高台にある水田地帯を意味する言葉で、この辺り一帯に古くから見られる地名ということであるから、橋の近くには昔は水田が広がっていたのであろう。
水田には豊かな水が必要であるが、確かに、この橋の辺りで妙正寺川が神田川と合流している。
「妙正寺川(みょうしょうじがわ)」は、東京都杉並区の「妙正寺公園」の中にある「妙正寺池」を水源として、中野区で「江古田川(えこだがわ)」を、西武線下落合(しもおちあい)付近で落合水再生センターからの放水路と合流して、最後はこの高田橋付近で神田川と合流する一級河川である。
かつては西武新宿線の下落合駅から先の高田馬場駅寄りで流路を南に変えて、今の神田川の096-滝沢橋から097-落合橋の間で神田川と合流していたが、大雨で合流地点で川の氾濫が起こったため、下流の高田橋で合流するように流路改築されて、現在のような形になったらしい。
この周辺の地名である「落合」は、二つの川がかつて合流していたことからついた名前である。
神田川も一級河川であるが、一級河川と二級河川の差はどこにあるかをご存知だろうか?
川の大きさではなく、川の重要度等から管轄が国土交通大臣となっているものが一級河川、都道府県知事の管轄となっているのが二級河川ということらしい。
高田橋の親柱
威厳を感じる親柱。
高田橋の分水路1
高田橋の分水路2
下流からの撮影です。
右は妙正寺。
妙正寺川はここで終わります。
堀部安兵衛(ほりべやすべえ)
高田というと「高田馬場」の地名がすぐに頭に浮かぶ。
元禄7(1694)年に江戸郊外の高田馬場である決闘が行われた。
伊予西条藩(いよにしじょうはん)士の村上庄右衛門(むらかみしょうえもん)は藩主の御前試合で菅野六朗左衛門(すがのろくろうざえもん)に負けたが、それを遺恨に思った村上が菅野に再度決闘申込の投げ文をするも、菅野が読んだのは決闘当日の朝。
命を落とすかもしれれないと思った菅野が剣術道場で意気投合していた中山安兵衛(なかやまやすべえ)の家に別れを次にいく。
安兵衛が留守のため文を残して決闘場に行くが、実は村上は決闘と偽って仲間を募り、菅野をだまし討ちにするつもりであった。
苦戦を強いられていた菅野のところに、文を読んであわてて駆けつけた安兵衛が到着すると形成逆転。
村上一味は一目散に逃げ去ったという。この決闘で助太刀の安兵衛の活躍が「高田馬場の十八人斬り」として評判となったという。
この評判を聞きつけたのが赤穂浪士(あこうろうし)の堀部弥兵衛(ほりべやへい)。
安兵衛を娘婿に迎えた。
これが堀部安兵衛(ほりべやすべえ)である。
浅野匠内匠頭(あさのたくみのかみ)の江戸城松の廊下での刃傷事件は元禄14(1701)年。
翌年、安兵衛も参加した赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件が起こったというわけである。
もっとも決闘の舞台となった高田馬場は、現在の住所表記である新宿区高田馬場ではなく、新宿区西早稲田にあるということだ。
ちなみに、堀部安兵衛は、神田川と関連する亀島川の亀島橋近くに住んでいたことも有る様で、サイト
東京・亀島川 リバーサイド ガイドの
堀部安兵衛武庸の碑のページに紹介されています。
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